「政界の異端児」との異名をもつ河野太郎氏。
河野太郎氏といえば「エゴサの鬼」として知られており、アンテナが高くどのような些細なつぶやきでも見逃さない&返しが面白いとしてSNS世代の若者にも大変な支持を得ています。
でも本当に首相にふさわしいのか?疑問に思う方も多いのではないでしょうか。
そこで今回は河野太郎氏の学歴や経歴・ルーツにまで迫ってみたいと思います。
大学を中退して渡米している?という過去またその理由についても確かめてみたいと思います!
Contents(目次)
河野太郎のプロフィール

氏名:河野 太郎(こうの たろう)
生年月日:1963年1月10日(59歳)
出生地:神奈川県平塚市
出身校:ジョージタウン大学国際学部比較政治学科
所属政党:自由民主党(麻生派)
河野太郎氏は自由民主党に所属される衆議院議員です。
元々は自民党で無派閥でしたが、その後宮澤派入会を経て麻生派として活躍されています。
入閣されてからは、防衛大臣・外務大臣・行政改革担当大臣・国家公務員制度担当大臣など多くの大臣職に就任されています。
そのほか新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣にも任命。「令和の運び屋」として活動されたりメディアでもその顔を見ない日はないほど国民への認知度も高い政治家です。
またご自身が発信されているSNSでも240万人以上ものフォロワー数をほこり、政治への関心が薄いと思われるネット世代の若者達にも注目されている政治家といえます。
河野太郎の学歴・偏差値まとめ!大学中退して渡米?
多くの大臣職を務められている河野太郎氏。では河野太郎氏の学歴や偏差値はどのようなものなのでしょうか?
大学を中退されて渡米しているという経歴やその理由についても確認してみましょう。
高校:慶應義塾高等学校(偏差値75)

河野太郎氏の出身校は慶応義塾高等学校です。
難関で知られる私立の男子高校で、卒業生の90%以上は慶應義塾大学へ進学しています。
河野太郎氏は在学時競走部(陸上部)に所属し主将を務めるほどでした。いずれは箱根駅伝に出場するのが夢だったようです。
この頃からすでに河野太郎氏はリーダーシップのある人物だったのですね。

ですがご自身のSNSにはこんな衝撃的な写真がアップされています。

ヤンキー座りに手にはタバコ?指導が入りそうな写真ですが、実は手元にあるのはチョークのようです。
河野太郎氏のお茶目な一面が見られるワンショットですね。
大学:①慶応義塾大学 経済学部(偏差値70)

河野太郎氏は慶應義塾高等学校を卒業されると、名門の慶應義塾大学・経済学部へ進学されています。
しかし在籍はわずか2ヶ月!
その後は渡米し、すぐにマサチューセッツ州のサマースクールに通学。そしてコネチカット州の寄宿学校へ1年間在籍され語学を学んでいました。
河野太郎氏のフットワークの軽さと行動力、是非見習いたいものですね。
大学:②アメリカ・ジョージタウン大学 比較政治学専攻(*平均GPAは、3.89点/SAT平均1435点)

一年間の語学研修を終えた19歳の9月、河野太郎氏はアメリカのワシントンD.C.近郊にある私立大学・ジョージタウン大学に入学されます。

こちらの大学は卒業生に、42第アメリカ合衆国大統領のビル・クリントン氏をはじめ、コスタリカ・パナマ・コロンビア・リトアニアなど世界各国の首脳を輩出しているなど、政界きっての名門校でもあります。

また5名のノーベル賞受賞者を世に出しているなど、各界でも知名度の高い世界屈指の大学といえます。
*ジョージタウン大学の偏差値について
アメリカには日本のように偏差値というものが無いため、難易度の目安として出願条件とされているGPA、在学生のSAT(大学進学適性試験)のスコアの平均、合格率などを参考にする。ジョージタウン大学の難易度は以下の通り。
・平均GPAは、3.89点(4点満点中):日本の高校の5段階の評定平均を単純計算した場合、4.86点(参照①)
・SATテストの平均は、1435点(1600点満点中)
・2017年(秋学期)合格率は、4年制で15.6%(参照②)
やはり河野太郎氏は日本の大学を中退し渡米されていました。
日本の大学を2ヶ月で退学し渡米された理由として、河野太郎氏は以下のように語っています。
河野議員は義塾経済学部入学後2ヶ月で退学し、渡米したエピソードを紹介。「将来の首脳会談では英語で話が出来なければと思っていた」と、当時から政治への強い思いがあったと語った。
引用:衆議院議員河野太郎氏、「予算編成論」にてゲスト講演
若干19歳での決断。
すでに政界で活躍する自身の姿を描いていたのでしょう。素晴らしい決断力ですね。
また専攻していた比較政治学とは、各国の政治を科学的・客観的・理論的に比較の視角から理解しようとする政治学の一分野です。
将来の日本の政治を考えた時に、やはり外へ出て他国の政治を学ぶことが必要だとも考えていたのかもしれません。
河野太郎の経歴は?総裁選出馬までを時系列で紹介
では渡米され、政治に対する学びを行った河野太郎氏はどのような経緯で総裁選に出馬されるに至ったのしょうか?
続いては河野太郎氏の大学卒業~総裁選出馬までの経歴を時系列で表にしてみましょう。
河野太郎の経歴
1986年 | 富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)入社。シンガポール等の子会社にて勤務 |
1993年 | 父・河野洋平が大株主を務める日本端子へ転職 |
1996年 | 衆議院議員総選挙に神奈川15区から立候補。初当選 |
2009年 | 自由民主党総裁選挙へ出馬。谷垣禎一に敗北 |
2015年 | 内閣府特命大臣として初入閣(第3次安倍第1次改造内閣) |
2017年 | 外務大臣抜擢(第3次安倍第3次改造内閣) |
2019年 | 防衛大臣に就任(第4次安倍第2次改造内閣) |
2020年 | 国務大臣・行政改革担当・国家公務員制度担当・内閣府特命担当大臣に就任(菅内閣) |
2021年 | ・新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣(1/18)
・総裁選出馬表明(9/10) |
表で見てもわかるように、過去に一度総裁選に立候補されている河野太郎氏。
その頃に比べ多くの大臣職を務め、政治家としての手腕に対して国民の評価も高くなっている印象があります。
内閣が替わっても大臣職に抜擢されるのは、やはり「内閣には必要な存在」としてその実力が認められているからなのでしょう。
ではなぜ河野太郎氏は政治の世界へすすむことになったのでしょうか?
ここからは河野家のルーツについて探ってみましょう。
河野太郎は華麗なる一族?先祖は豪農で祖父も政治家?
実は河野太郎氏は先祖が豪農・祖父も政治家という華麗なる一族の出身でした。
河野家家系図

河野家の先祖は、神奈川県足柄下郡豊川村(現:小田原市)の豪農であり、曾祖父の代から郡会議員や神奈川県会議長などを務める名家です。
祖父・河野一郎さんは1932年の衆議院議員総選挙に出馬され初当選、政治の世界へ入ります。
そして父・河野洋平さんも、祖父・河野一郎さんの逝去をきっかけに政界へ転身されています。その後1993年から1995年にかけて自民党の総裁に就任されています。
以上のように河野家は代々政治家の家系であり、3代に渡って政治の世界に深く関わっているのです。

物心つくころから政治の世界がつねに傍らにあった河野太郎氏。
このような環境下において政治のありかたについて考える機会が多くあったのでしょう。故に河野太郎氏は日本の政治を良くするために多くを学び行動・実行してきたのかも知れません。
河野太郎氏が父も務めた総裁選に出馬することは必然と言えるでしょう。
まとめ
生まれた時から政治の世界へと進む道が決まっていた河野太郎氏。
より良い日本にするために政治についての多くを学び、考察されてきたことでしょう。
『日本を前に進める』
河野太郎氏の掲げたスローガンです。
その実現にはどのような具体策が必要なのか?
そのための政策・改革は?
以上のことを踏まえた上で、今後の総裁選の行く末を私達も客観視せず、しっかりと向き合って見定めていきたいですね。